「誰であっても救われる」使徒15:1-21

 

「誰であっても」この誰であってもとは誰でしょう。それは、主イエス・キリストを信じる者誰でもということです。主を信じる者は、誰であっても救われて、神の子どもとして歩みます。

つまり、生まれや、才能、業績は問われないのです。性別、人種、国籍、健常者か障がい者か、そういうことは多様性のあらわれではありますが、価値としては神の御前では変わらないのです。

この救いの普遍性のゆえに、キリスト教は、仏教、イスラム教と共に「世界宗教」と呼ばれています。使徒言行録15章に記されているエルサレム教会での会議では、救いはユダヤ人だけに限定されないで、異邦人も救われることを確認しました。つまりすべての人は差別なく、神の子として招かれていることを確認したのです。それはまことに神が背後で導かれた教会会議でした。大きな分かれ道、岐路だったのです。これによって民族宗教であるユダヤ教の一派から世界の宗教へと発展していったのです。

そして、この「誰でも」には、「わたし」も含まれていることをまず受けとめましょう。ここでは「救い」を「愛」と言い換えることができます。神はこの普遍的な愛をわたしたちに届けてくださいました。わたしたちが、なにかを差し出すことができるから、愛される資格があるというのではない。神はなんの資格もないようなわたしたちをあるがままで愛し、わたしたちの存在をまるごと受けいれてくださったということなのです。

わたしたちの眼前には生きづらい世の現実があります。忍耐の針がレッドゾーンを振り切ってしまうようなこの現実がある一方で、わたしたちの存在そのものを喜び、期待し、どこまでも信じる、そんな父母のような愛を注いでくださっている神の存在があることを知ってください。わたしたちの魂は安堵し、前に向かって生きていく勇気が与えられます。ここに希望があります。この差別のない大いなる愛をこの世で証しするように、またこの救いを地の果てまで伝え広げるようにと、わたしたちは召されているのです。