「本当の自分の発見」ルカ15:11-32
放蕩息子の物語。ここを何度も読んでいるうちに、創世記からヨハネの黙示録に至る全聖書の中に一つの詩が流れているというイメージが与えられました。それは父なる神の哀しみの詩です。そして、それは同時に御子が十字架で祈るとりなしの祈りです。この詩、そして祈りがこの放蕩息子の物語を通して、今もわたしたちに響いてくるのです。
人はどこから来て、どこに行くのでしょうか? 印象派の画家ゴーギャンがタヒチで描いた絵のテーマです。「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこに行くのか。」結局人生は自分探しの旅です。
平成から令和と元号が変わりましたが、この自分探しの旅ということでは、変わることがないと言えるかもしれません。
皆さんはどのように考えられるでしょうか?
放蕩息子のように気づき、父の家に帰ることの中に、本当の自分の姿を見出すと聖書はわたしたちに語りかけています。この例え話を語っているイエス・キリストの十字架の贖いを通して、人生の方向転換を遂げて神のもとに立ち返るとき、深い魂の平安が約束されています。そしてその後は神の愛を証していく、神の子どもとしての使命を人生に見出すことになります。そこにも本当の自分の姿が示されています。
父なる神は切に待ち望んでいます。憐みに胸を焦がしておられます。神の哀しみの詩は、愛の詩でもあったのです。
この詩があなたの耳に届いているでしょうか。