「新・悪人正機説」マタイ9:9-13
「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」13節
前者は浄土真宗の教え、親鸞の弟子、唯円が記した歎異抄の中にある一節で「悪人正機説」といいます。後者は、今日の聖書箇所、もちろんこれはイエス様の語られた言葉です。
この二つの教えには、共通していることがあります。それは、罪人にも救いがあるというのではなく、罪人だからこそ、救いがあるということです。また、神から遠い罪人だからこそ、神に近い。逆転、逆説があります。これは何か抽象的な理屈ではなく、何かの法則でもなく、救いの筋道と言ってよいのではないかと思います。つまり、わたしたちは、何事もなく平穏無事な生活を送り、何もかもが与えられているならば、神様のことを考えることもなく、自分中心に生きていきます。しかし、わたしたちの人生に苦難が襲い、どうにもこうにも行き詰ることがあって、絶望の谷間を通る時に、共にいてくださる愛の神を発見するのです。ですから、弱いことは強い、ダメなことは良い、行き詰まりは新しい出発の入口、そのような逆転が起こってくるのです。
浄土真宗もキリスト教もこの点はとても懐が広くて、救いとして温かみがあると言えます。ダメな自分でもよいのだと人生に希望が見えてきます。
では、浄土真宗とキリスト教の違いはどこにあるのでしょう。それは十字架があるか、ないかだと言います。十字架とは、イエス・キリストの贖いの死によって、神と人との和解の道が開けたということです。その贖いとは、罪を罪として裁くということも含みます。つまり、ピリっとしているのです。赦された者は、何をしてもよいという甘えを助長するのではなく、赦された者は、真実に生きるという、ピッと背筋を伸ばす生き方、それがキリスト教です。赦された者として真実に生きていきましょう。