「あるがままで」創世記20:1-18、使徒13:13
聖書って、不思議な書物ですね。読んでいて、何も心に感じないで通り過ぎていく箇所があります。疑問だらけで腹に落ちない、納得できない箇所や、むしろ反発すら抱かせるような箇所もあります。しかし、実はそういう箇所こそ、生涯忘れることのできない強烈なメッセージとして心を捕らえる場合があります。今日の箇所は、そのひとつとなるかもしれません。
創世記20:1-18は、アブラハムがゲラルという地方に滞在した時のことです。アブラハムの妻サラはたいそう美しかったので、アブラハムは、彼女ゆえに命を狙われる危険を感じて、対外的にはサラに妻ではなく、妹と言うように願い、サラもそれを承諾しました。これは実は全くの嘘というわけではなく、半分は真実でした。アブラハムとサラは、父は同じで、母は異なるという異母兄妹同士の結婚だったからです。そしてすぐにサラはアビメレク王に召し入れられます。しかしその夜、王の夢の中に神が現れ、召し入れた女は人妻で、その女と関係を持てば王は死ぬと警告します。翌朝、アビメレクはアブラハムを呼び出し、なぜ偽ったのかと怒りを表します。アブラハムは、自分の命を守ろうとした防衛策であったことを明かします。でも言い訳です。ここには、信仰の父アブラハムらしからぬ、不信仰があり、また妻を犠牲にして身を守ろうとした意気地のなさ、愛の欠如を露呈しています。つまり、ダメなアブラハムなのです。それにも拘わらず、全体からすると、アブラハムは祝福され続け、前進していくのです。ここでは主導権がアブラハムではなく、主なる神にあること、アブラハムは英雄ではないことが明らかになります。つまり、神の憐みという(カッコ)の中にアブラハムはいるのです。これは、わたしたち自身にもあてはまることです。失敗、挫折、行き詰り、回り道(その一例として使徒13:13のヨハネ・マルコが挙げられます。)を、わたしたちは恐れる必要はありません。神の憐みの(カッコ)の中で、「あるがまま」であることがゆるされ、「あるがまま」用いられるのですから。恐れずに歩みましょう。