「聖書は神の御言葉」使徒言行録17:1-9
私は牧師になる召しを受けて神学校に入ったものの、その後、学年が進むにつれ、悩みが深くなっていきました。自分自身を見てしまうと、自分は牧師になるにはふさわしくないと思えてならなかったからです。不信仰と言われてもしかたがない。進路を変えることの方が神の前に誠実であると思いました。ほぼ進路の変更を決意した頃のことです。聖書の通読でエステル記の4章を読んでいました。まずこの箇所について簡単に解説します。
紀元前5世紀のペルシア時代のお話です。ユダヤ人の娘エステルは大変美しく、ペルシアの王妃として選ばれ王宮に召されていました。いわばシンデレラガールというわけです。その頃、ユダヤ人たちは苦境に立たされ、迫害を受けて絶滅の危機に瀕しました。エステルの育て親モルデカイは王宮にいるエステルのもとに赴き、人を介して助けを求めました。あなたの立場で、ユダヤ人を救済してほしい。王に頼んでほしい。しかし、エステルはそれを拒みます。彼女もまた死の危険が伴うことだったからです。逃げ腰、及び腰となっていたエステルに、モルデカイは、食い下がって問いかけ、叱責し、信仰の決断を迫る、それが4章です。
「このような時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」(4章14節)神の計画、召しについて語ったのです。その言葉がエステルを動かし信仰の決断をします。死を覚悟し、ユダヤ人の救済のために動くのです。
そのエステルに迫った言葉が、神の御言葉として立ち上がって自分に向けられました。「あなたはここで逃げてならない。」「神の言葉を語るためにこそ、あなたは今に至るまで導かれてきたのではないか?」御言葉に圧倒され、逃げ道を失い、結局、神学校をやめず、進路を変更しないという決断をしました。こうして卒業がゆるされ、牧師・伝道者として教会に赴任し、今日に至ります。
聖書は、聖霊が働く時に、神の言葉となります。そして、出来事が実際に起こります。「御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩編119:105)と詩編にもあります。人を変え、道を方向づけ、背中を押し、実現していくのです。御言葉に聞き、学び、親しんで参りましょう。