「実験的な信仰を」創世記22:1-19

 

「信仰の実験」という言葉を聞いたことがありますか? あるいは「実験された信仰」という言葉を。わたしたちは、神様を信じるといっても、ぼんやりしていたり、実生活とはあまり関係なく過ごしていくことが多いのではないでしょうか。実はこれは私自身のことでもあるのです。わたしは、父が牧師であったこともあって、幼い頃から、空気のようにキリスト教を触れていました。しかし、かえってそのせいでしょうか、聖書のお話は教会学校で聞いていたり、中高生の頃は、夏のバイブルスクールなどで、ある程度頭の中に入っていたりするのですが、あまり私にとっては現実的ではなかったのです。それは神学校に入ってからもそうでした。そんな形で神学校6年間を過ごしました。客観的にみて、社会の厳しさに揉まれていなかった、いわゆるボンボンだったわけです。厳しい現実を歩む人の気持ちもわからない人間。そんなわたしを牧師、伝道者として育てるために、神様は、様々な試練を用意してくださいました。まず高知県宿毛市という、わたしにとってはいわば地の果てまで遣わされ、開拓伝道と教会形成でさんざん苦労しました。高知の荒波に揉まれに揉まれました。鍛えてくださったのです。特に信じることをその中で学ばせてくださいました。語る言葉をその中で、与えてくださったのです。拙いわたしの場合をお話しましたが、このように神様は、わたしたちをお取り扱いくださるのは間違いないことです。

わたしたちを生きた信仰に生かすために、また神様の祝福のうちに本当に生かして、祝福の継承者とするために、わたしたちを実験し、試され、冒険をくぐり抜けさせることで成長させてくださいます。族長アブラハムのように。

さあ、わたしたちも、出発しましょう。「主の山に備えあり」という信仰を見出すために。、「あなたのイサク」「安全、保険、プライド、自我」を捧げて従いましょう。