「信仰の確かさ」 ローマ5:1-11

讃美歌21-449「千歳の岩よ」を、愛唱讃美歌として選ばれる方は多いです。Tさんもそうでした。自分自身の信仰は、心もとなく、吹けば飛ぶもみがらのごとし。「不信仰」の烙印を押されてもしかたがないと自覚されていました。しかし、自分を支えてくださっている方は確かであるという信仰。この讃美歌の2番に、「かよわき我は、おきてにたえず、もゆる心も、たぎつ涙も、罪をあがなう力はあらず。」とあります。そんな自分なんだけれど、こんな自分をも囲んでおられる千歳の岩、イエス・キリストは確かだ。だから自分も確かだと歌っています。

 信仰の確かさは、千歳の岩であるキリストの側にあるのです。千歳の年月が経っても変わらないのです。そのおおらかさ、確かさの中にTさんはおられた。私はTさんの生前にはそのことをよくわかっていませんでした。後になって、亡くなってから具体的にわかりました。Tさんの葬儀の中で正直にお話をさせていただきました。この讃美歌を歌うたびに、今でもTさんを思い起こします。そして、千歳の岩としての土台を与えられていることを確かめるのです。

「わたしたちは知っているのです。」これは感じるのではありません。信仰において客観的な確かな恵みとして知っているのです。それは、わたしたちが曲がりなりにも、信仰を与えられ、洗礼に導かれ、聖餐を受けている事実に現れています。この確かさから、信仰は安定し、揺るがなくなります。安心して、信仰の豊かな生活を歩む。そのことにわたしたちは招かれているのです。