「人生の終着点」ルカ19:1-10
人生の終着点は、どこにあるでしょうか。それは時間や場所のことではなく、また、単に自分の人生の目標とする山頂に到達するということでもないように思います。むしろ、それは途上であっても、自分は「これで死ねる」という充足感、もしくは自分が生きている意味とは何かを感じられること、こういったことの発見にあるのではないでしょうか。この充足感を求め続け、探しあてた時の喜びは格別でありましょう。このような発見は、出会いによって導かれると、聖書はわたしたちに告げています。そして、この出会いは、わたしたちが求め、探し、見出すというよりも、神様が与えてくださるものです。すなわちイエス・キリストご自身が、まっすぐにわたしたちのところに近づいてきてくださり、わたしたちを見い出してくださり、名前を呼んでくださって、充足した交わりに入ることを伝えています。
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ルカ19:5
このようにわたしの名を呼んでくださる方がいます。わたしの存在や、わたしの人生に注目し、たくさんの人が溢れているにも関わらず、あの「ウォーリーを探せ」のように、ちっぽけなわたしを探し出してくださる。そして、友として、わたしと人生を共に歩まれる。
この友情、そして、愛、ゆるしが、わたしたちの存在の喜びとなり、この方の友情や愛に呼応して少しでも報いていこうとする。その応答こそが、途上を歩むわたしたちの人生の充足なのです。この先には永遠の御国という山頂に至るという望みがあります。しかし、あの方と共に、途上を歩むことにこそ価値があるのです。