「信仰と笑い」創世記21:1-8

5節「息子イサクが生まれた時、アブラハムは100歳であった。サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は、皆わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」

聖書的に笑いには二種類あります。他者を疑い、さげすみ、攻撃することから生じる「こっけいさ」を笑いとするそれは悪い笑いです。誰かが嫌な思いをするこの毒のある笑いが今ちまたではもてはやされています。しかし、他方で周りの人々を幸せにする祝福に満ちた笑いがあります。このような良い笑いを分かち合うことを神様は求めておられます。

このことは実は、旧約聖書から新約聖書まで一貫しているのです。その頂点は、神の子イエス・キリストを信じ、しっかりと人格的に神と結びつくことからくる祝福に満ちた笑いです。基本的、根本的にはわたしたちは十字架の贖いを通して、罪のゆるしと神の愛の中に生かされます。そこには様々なしがらみからの解放があります。罪や死、この世のいろいろな縛り、苦難からも自由にされます。そして主の復活に結びついた希望があります。神の御国での完全な救いの約束です。救いは、心だけではないのです。肉体を含めた全体的な救いです。別れ別れになった人たちとも、再会し、一つになれる時がきます。つまり最後には笑いが約束されている!最後は笑うというのがいいじゃないですか。生き方が楽天的になりますよ。

「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」ルカによる福音書6章21節

もはやどんなに厳しく深刻な問題も、厳しすぎず、まじめすぎず、過ぎ行く自分自身のこっけいさとして、「まあいいか!」と笑いとばせるのです。

そもそもわたしたちの存在や生涯そのものが、神のユーモアではなくてなんでしょう。私はそう思っているのです。こんな自分を生かして、道具として用いてくださるなんて。これは神のユーモアです。これだけで笑えますよ!